震災復興
〜九州自動車道、復旧までの1年半〜
2016年4月14日に発生した熊本地震。2度にわたる震度7の地震や度重なる余震で、九州自動車道は激しい損傷を受けた。24時間体制の復旧作業によって、震災以来25日ぶりに通行止めが解除された際には、テレビニュースや新聞で取り上げられるなど注目を集めたが、同工事の特命を受けた会社こそがガイアート。復旧現場で働いてきた社員・根川が、当時の様子を語る。
施工管理 根川 拓 Taku Negawa
1990年生まれ。2015年にガイアートへ入社。九州支店への配属後、福岡空港における誘導路舗装工事を経験。その後、熊本県内で高速道路の工事を担当。熊本地震による九州自動車道の復旧工事に携わった。
早期復旧のため、
全国から社員が駆けつけた。
「なんだ、これ……。」現場を目の当たりにした社員は、みな呆然としていた。道路の至るところでひび割れが発生し、隆起のひどいところでは1メートル近い高低差ができていた。
「何をどうすれば元通りになるのか、入社2年目の自分には想像がつきませんでした。」
当時、福岡で別の仕事があったにも関わらず、召集された根川。九州自動車道を管理するNEXCO(ネクスコ)西日本から「ゴールデンウイークまでの復旧を目指してほしい」と早期復旧の特命を受けたガイアートが、交代制による24時間体制の復旧工事を決定してのことだった。震災直前まで同高速道路の工事をしていた根川だけではなく、ガイアートの全国の支店から多くの社員が熊本に駆けつけた。
そのかいあって、5月9日には九州自動車道内のすべての通行止めが解除。しかし、それは応急処置に過ぎず、橋梁の損害や土砂崩落の激しい箇所については、本来片側2車線のところを1車線にしての開通だった。本格的な復旧工事は、通行止め解除を報じるニュースのあとも、約1年半にわたって続いた。
先の見えない不安と強い決意。
「通行止めが解除されたあとも、車が波打ちながら走っているような道路の状態でした。道路のうねりをはじめ、水路・ガードレール・防音板などのずれがひどかった。それを本来のように戻すのが、本復旧工事の目的でした。」
通常の舗装工事の場合、現場にいる担当者は多くても8人ほどだが、20人以上の者が汗を流していた。規制範囲は広く、約12キロメートルの区間を被害の大きい箇所を重点的に施工した。
現場への警備員の派遣も、通常2社のところを7社に依頼していたほどだ。朝・昼・夜と入れ替えで工事を進めていく。「本当に終わるのか」先の見えづらい広い工区の仕事とあって、担当者同士でそんな会話を耳にすることもあったという。
「今となっては、笑い話ですけどね。自分を含めた九州支店の人たちは、日頃お世話になっている地元の復興に携わるとあって、熱が一層高かったのを覚えています。みんなで、『やってやろうぜ。これを終わらせないと、おれたちは他の現場に(気持ちが)行けないよ』と話していました。」
一人の青年が成長する瞬間。
無事に工事が終了したのは、2017年9月。最後の工程は舗装とあって、ガードレールなどの構造物の担当だった根川の工事現場は一足早く作業を終えた。
本来なら、すぐさま別の現場へ行かなければならないところだが、根川は工事の最後に行う竣工検査に立ち会った。本復旧工事に初日から参加したこともあるが、支店長から「ここの工事は最後まで見させておきたいんです。若い根川が将来、現場代理人になった時に必ず糧になるはずです。」と本社に掛け合ってのことだ。
「それまで、自分は先輩に言われたことをやるだけでした。でも、本復旧の工事では、施工管理者としての役割を全うできた。だからこそ、工事の最後までいられたことがうれしかったんです。その後、工事したところを、自分の車で走るといろいろな思いがよみがえり、自信に変わっていきました。」
渋滞待ちのドライバーに
掛けられた言葉。
現在は、九州自動車道における熊本県内の舗装工事を行っている根川。「震災の復旧工事に携わらなければ、今の自分はない。」と言い切る。
「復旧工事を行っている最中、1車線での開通とあって、渋滞が起きることがありました。その時、車のウインドウをわざわざ開けて、一声掛けてくださるドライバーの方が非常に多くて。普通の舗装工事なら、ありえないことですよね。『頑張れよ!』『頑張ってね!』という非常にシンプルなものでしたけど、みなさんがどうして自分たちに声を掛けてくださったのか、車で誰かに会いにいくであろう心境を含めて考えると、道路って、人々の生活になくてはならないものなのだと心の底から思えたんです。」